道祖神について


by kokoton


原始信仰から発展してきた道祖神は、交通安全の神、夫婦和合の神、厄を防ぐ神、五穀豊穣の
神、子孫繁栄の神等を含んだ石の信仰だ。
元々は”漢の国”の旅行安全の道祖の神が日本に伝わり、その古来の信仰と結びつて行った。


その中心となるのは塞の神(さいのかみ)と岐神(ふなとのかみ)であろう。
日本書紀ではイザナギがイザナミの死を悲しみ、黄泉の国へ会いに行き、腐敗した体を見てしまう。
黄泉の国の女達い追いかけられたイザナギは黄泉比良坂(よもつひらさか)で千人で動かせる岩で道を塞ぎ、
持っていた杖を立ててここを過ぎる事勿れと宣した。
この時の磐石が塞の神の始まりと言われている。千人所引の盤石(ちびきのいわ)である。
また、その時持っていた杖をつき、これより先に入る事まかり成らぬと宣したのが岐神(ふなとのかみ)
である。

この二つ、石と木は道祖神の様々な関係を映し出している。例えば石仏としての道祖神と御柱もそうであろう。
また、イザナギは黄泉の国から逃げるときに桃を投げている。これも双体道祖神の掘られている中区(周りの
掘り)の形が桃の形のものに繋がる。


この事から村に災いを防ぐ為に一つは、サイノカミ(塞の神・幸の神・障の神)になった。
塞の神とは人間に襲いかかる「悪霊や災難」に立ち塞がり守る神で村落の入り口に祀られた。
今でも所々に”さいのかみ”という地名が残っている(才ノ神、祭ノ神、等)。


一方では、奈良時代辺りからフナトノカミと考えられたようである。先ほどの黄泉比良坂
で手にしていた杖を立て、岐神(ふなとのかみ)といった事による。
岐神(ふなとのかみ)、岐とは道の分かれ道と言う意味でこの事からも旅の安全の神でもあり、
道の辻に祀られる事になることがわかる。
フナトノカミとは子孫を死者の数より多く生ませる霊力を持った神で、その形は男根で表現されていた。
男根石を祀る習慣は全国各地で見ることが出来る。男根石を道祖金勢(どうそこんせい)といい、
元々は祖先のシンボルとしての道祖神でもある。

道祖神の信仰の原型はこの塞の神と岐神(ふなとのかみ)で、災いを防ぎ子孫繁栄にあったと言える。
そして、その信仰の対象物は男根石(もしくは木)であった。また、塞の神には一種変わった形をした
石を祀ることもあったようである(丸石・自然石等)。


道しるべとしての道祖神としては、国津神の猿田彦が天孫降臨を待ち天鈿女命と道案内をした事
からも来ている。この両神を双体像とした石仏もある。
そして道饗神(みちあえのかみ)、道教の道陸神として高札場(こうさつば)の横に祀られる事も多かった。
高札場とは、江戸時代の幕府からのおふれを書いた高札を張った場所。それは村と村の距離を示す物でも
あった。御柱もそこにある事がおおい。


安曇平東側山中の道祖神は信仰の趣が強い。山間のその集落の下もしくは上にあり必ず山頂を
背にする。
その位置は、村境(旧の)であり、お墓との境である事も多々ある。下の村を見下ろす様に、また上の村を
守る様に佇む。これは塞の神の傾向が強いのだろう。
そして、御神木とも思しき大木の下にあることが多い。これは前出の石と木の関係からも納得できる。


また、これら神様が男性であることから安曇野での御柱には高い木であるだけでなくそれに横棒や縄、
色紙で陰相として女性を祀っている。また、男根石を女性である弁天様の祀られる池に投げ込む地域も
松本平等で見られる。
双体の道祖神になったのは、陽石・陰石の関係からも判るとおりで男の神様を結婚させてあげようということ
から出来上がった物であろう。


安曇野に双体道祖神が彫られ始めたのは享保年間から(1716〜)盛んになった様である。
それ以前のものも有るが造立年とその作風が合わない等問題が見られるようだ。
形も並立、握手、酒器婚礼と変化してきた。特に酒器を持つ婚礼型は安曇野から始まったとも
言われている。また、内裏雛(だいりびな)の流行と同じくして双体道祖神が増えたという説もある。

道祖神を彫ったのは誰だったのかと言う事に付いては、高遠の石工と言う説が一般的だ。
当時、高遠領内には数百人の石工が住んでいたといわれ城の築城・改修も無くなって近隣諸国に出稼ぎに
出たと言われている。


道祖神祭りは全国的に「どんど焼き」や「左義長」等と呼び正月七日に行う事が多いが、安曇野では
「三九郎」と呼び北安曇では「おんべ焼き」と呼ばれている。また松本平では事八日(ことようか)、2月8日の
事で事始めの日に行う所もある。疫病神や一つ目小僧が現れる日で、物忌みをする日でもある。
この事で災いを入れない道祖神との関係ができ、この日に道祖神祭りをする所があるのであろう。


道祖神と疫病神の話しがある。事八日(2月8日)とは神無月に出雲に出かけた疫病神がその村に帰って
来る日である。出雲に出かける際に厄病事を記した巻物を道祖神に預けた疫病神は、その日に返してもらう。
しかし道祖神は正月七日にどんどの火で焼かれてしまったと言い村人を災いから守るのだと言う。


仏教の伝来と合わせて、仏教系の道祖神も現れる。並立し男神と女神の差別が殆どつかないものや
蓮の花の上で、向かって左が男であれば仏教系道祖神である。(仏教では左が上座、神道では右が上座)
神仏混合の国ならではの風習であろう。またそれは地蔵信仰ともなり、村外れにたつ地蔵と重なるのである。
人間苦の六道にはそれぞれ地蔵菩薩がいて人間に代わり苦しみを受けてくれると言う。辻、村境、峠に
六地蔵が立てられている事が道祖神信仰と結びつくのは不思議がない。信州にもまれに有る単体像の道祖神
が概ねお地蔵様と似ているのも不思議はない。


また、道祖神には面白い風習も有る。
かつて江戸時代に、安曇野では道祖神を盗むという風習があったという。
若者が道祖神の嫁入りと称して盗んだそうである。その証拠に道祖神には帯代十両(明治になると十円等)等と
いう文字が刻まれていおり、これはもって行くならその金を払っていくようにと言う事だったらしい。
この風習を示す様に、刻まれた地名が置いて有る所と違うものもある。道祖神に屋根と柵が有るというのも
保護するだけで無く盗まれない為であり、道祖神が大きくなってきた(特に平地のものはその傾向が強い)の
もまた同じ理由だとの話しも有る。
もっとも、この風習も互いの集落の暗黙の了解の元で行われた地区も有るらしい。峠を越えて盗み戻るまで
はひっそっりと、しかし持ちかえって峠を越えてから村人揃って囃しながら迎えるという。
何とも不思議な風習ではある。
この道祖神盗みを象徴する道祖神が松本平の芦の窪にある。現存するのは正徳5年(1715年)、寛政7年(1795)
に続き天保14年(1842年)の三代目のものである。初代・二代目ともそれぞれ山形村小坂と塩尻市洗馬に現存
する。山形村小坂(おさか)の物は、土蔵の横にひっそりと置かれていた。

盗んできた道祖神を隠しておいて災いがあった例もある。上記芦の窪の道祖神盗みは了解ごとを示す資料が
すぐ横にある旧庄屋さん宅から見つかっている様だが、じっさいにこっそりと盗んできた例も多い。その中でも
道祖神が災いをもたらした話しとして八坂村下笹尾の道祖神がある。
以前は同じ八坂村の相川に有ったのを下笹尾の若い衆が帯代金も払わずに盗んできて洞窟の中に隠して
置いたそうだ。しかし、それから集落に火事が起り現在の位置に奉ったと言うことで有る。


道祖神の添え彫りは様々だ。吉祥をあらわす菊花や厄除けの鬼面を始め、七五三縄・鳥居・御幣の他に
年代や村の名前等いずれも年代が新しくなるにつれて増えている。又、日月を彫り込み庚申との関係が強い
ものや卍を彫り込み仏教色の強いものも有る。

道祖神信仰と庚申信仰はつながってしまった様だ。道祖神の横には庚申塔が並立している事が多い。
人間の身体には三尸(さんし)の虫と言う虫がいて人間の犯す罪を監視している。庚申の夜が来ると三尸の虫
は身体から抜け出して天帝に悪行を報告すると言うのである。天帝はそれによって人の生命を決める。
眠らなければ三尸の虫は身体から抜け出る事が出来ないため、その夜は寝ずに人々が集まり夜を過ごす。
人間の長寿を祈る庚申講が災いを防ぎ子孫繁栄を願う道祖神信仰と重なっていったのだろう。

このように日本の古来からの原始信仰とも言うべき道祖神であるので、現在の物も当然設立されているが、
やっぱり古来から人々の生活に密着してきた物に趣が感じられるのである。

◆以上はあくまでも道祖神の探索、伺ったお話、また別記資料等によるkokoton個人的なまとめです。
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