生坂村の道祖神 安曇野の東側に位置する山間の村、生坂村。 今回は、ここ生坂村の道祖神を紹介します。 生坂村の道祖神は、体系的には位置がらか 八坂・広津地区と明科地区との間にあると 思われます。 また、多くの道祖神が"やす"の酒樽・杯・等 で奉られているのは嬉しい事です。 |
◆生坂村の道祖神達
梶本(年代不明) |
中塚(年代不明) |
大岩(享保14年) |
鷺の平(明治20年) |
才光寺(安政6年) |
袖山(宝暦6年) |
諏訪社(左:不明 右:天保13年) |
寺沢(明治33年) |
梶本 | 観音堂の横にあり、コンクリートブロックの囲いで中が見ずらいくらいに守られている。大切にされてるのだがちょっと残念。 |
中塚 | 古そうな像である。中区を彫らない像で笏扇像(多分、笏と扇だと思われる)と言うのも大変珍しいものである。三頭身ほどの可愛いプロポーションである。この道の先は旧広津村の前田地区だ。 |
大岩 | 八坂村の項でも書いたように、お隣八坂村・竹箆の道祖神の真横にある。これも並立像で珍しいシルエットだ。 |
鷺の平 | 国道19号線沿いの鷺の平にあり、大きなやすの酒樽・杯・七五三縄で奉られている。 |
才光寺 | この地区では珍しい丸い形の道祖神。その姿等、安曇平の道祖神を彷彿させてくれる。 |
袖山 | お地蔵様の様に中区の無い形の道祖神で、握手像は珍しい。大型化して、握手像・酒器像となっていく過渡期の物と思われる。裏山の尾根沿いに大事に奉られいる。 |
諏訪社内 | 資料では、左の握手像の道祖神の存在が確認できない。どこから移設したものであろうか、今後の調査対象である。右の酒器像では大変大きな酒器が面白い。 |
寺沢 | 実に美しい道祖神である。kokotonが見てきた山中の道祖神でもベスト3に入る。奥行きのある石に深い彫りが印象的である。この道祖神も集落の裏山から見守る様に佇んでいる。 |
◆丁寧に奉られる日岐の道祖神 | |
実に丁寧に奉られている道祖神である。 大町から東地区の山中の道祖神は藁を筒状に編んだ"やす"の酒樽・杯・米俵・七五三縄(しめなわ)・等で奉るのが風習である。元来は道祖神を守るのもその"やす"で作ったものであるがこの様にトタン屋根やコンクリートブロックにとって代られている物が殆どである。 また、ここには2体の道祖神が奉られているが、その前には夥しい数の丸石の道祖神が一緒に置かれている。これも古くからの慣わしだろう。 向かって左側の道祖神(写真左下)は崩れがひどく、表情は既に見ることが出来ない。 向かって右側の握手像の道祖神(写真右下)は安政4年の物で大きめな砂岩で作られており帯代金25両と彫られている。また、珍しい事はその上部に葵の紋章と菊の紋章が並べて彫られている事だろう。 |
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◆小谷田(こやんた)の自然石道祖神
自然石の道祖神でも、まさに原始的な道祖神である。 丸石であるとか、典型的な男根石では無い石がいくつか固めて置かれている。 基本的には一番大きな物が陽石であろうか。その他の石は良くわからない。しかし、この道祖神はこの山奥深い集落の小さな畑の畔に置かれていたのだ。設置から言えば五穀豊穣を祈った物と思われるのであるが、この辺りの集落としては珍しい設置場所であろう。 | |
生坂村の入山の深く、一番山深いところに小谷田(こやんた)という集落がある。もちろん、どの地図を見ても小谷田の記述はない。 ここ小谷田に住むのは池田さんただお一人だ。その池田さん自身もこの道祖神を探すのに考えるくらい最近では忘れられていた。右の写真、池田さんが見ている辺りに道祖神がある。18代続くと言う事で、池田さんが守ってきた道祖神の古さが伺われる。 当日、お願いして藪を掻き分けて探していただいたのが上の写真だ。 |
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実は、ここ小谷田の道祖神は同じ入山の矢殿あらし峯と言う山の峯に有る道祖神を探し迷って尋ねたもの。実際に原始信仰である道祖神は尋ねる程に奥深い。 |
◆長谷久保の自然石と双体の道祖神
この道祖神は平成2年という新しいものだ。 頁頭の写真がそのシチュエーションである。双体像の上にある青い屋根の祠の中には自然石道祖神が有った。(写真右)。そして、その青い屋根の祠に何かを近づけない様するかの様にしめ縄が張られている。(頁頭写真)不思議な気配だ。 地元の方にお話をうかがわないと事の真相はわからない。 お詫び:草尾山の道祖神と勘違いをしてアップしていた事を訂正すると共にお詫びします。 |
◆水穴の道祖神は集落の無い山道の三叉路、尾根にある
道しるべとしての道祖神とは言え、集落に絡むところにあるものだ。しかし、この道祖神は水穴峰と言われる山の尾根に有る。その下には旧道の三叉路があるのだ。今は、普通の車が通るような道ではないこの道がかつては大事な交通路であった事が伺われる。大きな松の木の下にある道祖神の顔にはほんのりと紅が残り、かつては彩色が施されていた事がわかる。 十二単の女性の握手像は安政2年の作である。 |
◆重の道祖神は、その集落を大事に見守っていた
これがこの周辺、本来の道祖神だろう。 左の写真の木の下の三角形の藁の中に道祖神は奉られている。 小さな集落を見守る様に佇む道祖神は実際には旧道にある。 集落の下の道は近年、車の通行を基準として作られたのであり 旧来の道ではない。かつては、この様に道は山を越えて続いて いたはずで、道祖神はその集落の山側もしくは麓側に置かれて いた。藁の屋根をいただいた道祖神には"やす"の酒樽と杯が 供えられていた。 明治33年のこの道祖神の佇まいが、本来の山中の集落の 道祖神の姿だったのだろう。心休まる風景であった。 |
旧広津村と八坂村の東側に接する生坂村の双体道祖神の内、村が推奨して学習資料に載せている中の半分を超える14体を今回は紹介しました。実際には、生坂村の道祖神は100体を越えて存在しており。その中でも小立野入地区の山中廃村道祖神はkokotonの興味を引くのに十分な状況です。
折を見て紹介予定です。